star_of_bba’s diary

甲状腺、卵巣と立て続けに手術したのち遊び歩いてます。

父を送る(1) プロローグ

子供の頃、土曜日と日曜日が大嫌いだった。
土曜日の昼はいつも学校からの帰り道、家が近づくと神様に祈りながらのろのろと歩き、覚悟を持って玄関のドアを開けていた。今日はこんないいことをしました。こんな嫌なことがありました。だから神様、お願いします。その代わりに助けてください。どうかお父さんが怒っていませんように。お父さんとお母さんがケンカしていませんように。

土日は父親が家にいる日だった。父親は自分の価値観が全て正しいと信じて疑わない人間で、その価値観は『世間』とか『普通』に異常に拘ったものだった。その枠から少しでもはみ出ていると感じればすぐに怒鳴ったり物を投げたりした。父親の怒りのスイッチがどこにあるか分からない私はできるだけ家の中では陽気なふりをして父親の気分を盛り上げようとした。そんな私の頑張りなんて全く意に介さず、父親は母親に対しても気に入らないとすぐに怒鳴りつけた。怒鳴られた母親が負けずに怒鳴り返し、私は二人がお互いを罵るのが悲しくて泣いた。父親がいる時の家の中は常に一触即発の緊張状態で、少しも気が休まらなかった。酒を飲んで酔った父親はさらに輪をかけて最悪で、臭い息を吐きながら呂律の回らない口でしつこく私や弟を呼び、絡んでしがみついて離れなくなる。子供の私にとっては得体の知れない動物みたいでただただ恐怖だった。私にとって父親が居る日の家は、休まることのない逃げ出したい場所でしかなかった。

高校生になってある程度の自由が認められると、家にいる時間はどんどん減った。両親の仲はますます険悪になり、離婚騒動が何度も起きた。離婚するなら勝手に出て行け、その代わり何もかも置いて行け、一銭もやらないからなというのが父親の常套句で、先立つものが無いのでは子供らに苦労をかけてしまう…と母が泣きながら諦めるというのがいつものパターンだった。辛かった。なんで自分ばかりこんなに不幸なんだろうと思っていた。私が高校三年生に進級して間もなく弟が「お前の世話にはなりたくない」と父親に向かって啖呵を切った挙句、高校を中退して家を飛び出した。

短大に入り、バイトでお金が手に入るようになると家には寝に帰るだけになった。当然、父親の中にある『世間』ではあり得ないことだったので、父親は烈火の如く怒り狂った。玄関ドアのロックをかけられて家に入れなくされたし(玄関ドア横の新聞受けから傘を突っ込んでうまいことロックを外し無事就寝)、またある時はこっそり夜中に帰って二階の自室へ戻る私を逃さないために、父親が玄関に布団を敷いて待っていたこともあった(何を言われても一言も発さずただただ黙って俯いて父親が根負けするのを待った)。そして私が短大を卒業した頃に母親も自分の実家に出戻って別居を開始した。程なくして母親は家庭裁判所に離婚の調停を申し立て、なかなか首を縦に振らない父親を調停員に説得させて僅かばかりの共有財産を受け取り、離婚した。就職した私は変わらず実家住まいを続け、寝る時以外は家の外で過ごした。

そうこうしているうち、私は三十代に突入した。二十歳から十年間、夢や目標があるわけでもなくただただずっと無職を貫き通す彼氏に対し、なんだこいつはと突如として気が付いた私は、ようやく落ち着いて仕事が終わると真っすぐ家に帰って夕ごはんを食べるようになった。同じ頃、再婚前提で父親と付き合い始めた女性が私と父の住む家で同居することになった。この方の同居と自分の転職を機に、私は家を出ることにした。後妻さん(仮)はとても良い方で、一緒に暮らすことになんの抵抗もなかったが、だからと言っていい歳した娘がいつまでも家にいて、私の分まで炊事や洗濯などの家事をやらせていたら上手くいくものもいかないだろうと思ったのだ。また家族がバラバラになるのは嫌だった。ここでも父親は激怒して大反対したが、後妻(仮)さんの後押しもあってなんとか一人暮らしを始めることができた。父親とは、私が一人暮らしを始めて物理的に適度な距離を保つことでようやくお互い穏やかに接することができるようになった。 なお、私が一人暮らしを始めてから半年ほどで後妻さん(仮)は父親の身勝手さに嫌気が差し家を出て行った(まぁそうなるだろうとは思っていた)。

後妻さん(仮)が出て行き、父親が一人暮らしになって半年後。父親に食道がんが見つかった。ステージⅣまで進行していて、食道を全て切り取って胃を伸ばして器官と繋げる手術を受けた。手術直後の父は胃の位置が変わって小さくなったことであまり食べられなくなり一気に痩せてしまったが、数年かけて少しずつ体力を戻して釣りに行ったり競馬場に行ったりと好きに遊べるくらいまで回復した。

父親に病気が見つかったタイミングでも、絶対実家には戻りたくなかったし、まだまだ気力も体力も十分あった父親からも戻ってきてくれと言われることはなかった。病気と私の独立をきっかけに、およそ三十五年越しにやっと少し歪ながらも凪いだ父娘関係を築くことができたのだった。


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