star_of_bba’s diary

甲状腺、卵巣と立て続けに手術したのち遊び歩いてます。

父を送る(17) 出発

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実家までの住所を運転手さんに告げるとタクシーは滑らかに動き出した。しばらくお互い無言のまま走り続けていたが、父親がそれでな、と口を開いた。

おまえの旦那の、ほら、カンタくん。(サンタだよ、と訂正。父親はいつも夫の名前を間違えていた)うん、カンタくんにもあげるものを決めてるんだ。俺の時計、あれな。良いものだから。ただ五年に一度はメンテナンスが必要だからそれだけちゃんとやってくれな。

床屋さんには菓子折り持って行ったか?そうか。あと、お父さんが持ってる株な、お父さんが買った頃より随分値下がりしちゃったけどそのまま持ち続けて欲しいんだ。おまえの老後の資金にな。

……。おまえの弟にも。あいつにも、何もやらないってわけにはいかないだろう。どうするんだろうな………。

最後の方は独り言のようで、それまでうん、うん、と聞いていた私は言うべき言葉も見つからず黙った。父親が私の手の甲に自分の手を乗せてポンポンと叩いた。その手があまりにも冷たくて、びっくりした私は、思わず父親の手を掴んで握り、すごい冷たいね。大丈夫?寒い?と聞いた。寒くないよ、と父親が答えた。再び沈黙が続いた。渋滞に巻き込まれることもなく、タクシーは無事家に着いた。

父親に先立って家の門に入り、玄関ドアの鍵を開ける。父親がゆっくりと玄関までの階段を上って家に入った。父親の部屋に入り、さぁ準備しよう、と努めて明るく私が声を出してからまずは病院から持ち帰ったカバンを開けて荷解きした。洗濯物や歯ブラシなどを取り出している中で、病院でレンタルしたタオルが数枚入っていることに気付いた。あらま。盗んできちゃったの。と揶揄うように父親に声を掛けたが、父親は盗んだわけじゃない、とだけ言って引き出しの中から新しい下着や靴下を取り出していた。荷解きしたものの整理が終わったので、父親の荷造りを手伝う。言われるまま下着、靴下、上着、ズボン…と揃えてカバンに詰めた。

あれがない、これがないと騒ぎながら準備を終えた。父親が、床屋に行きたいなと言い出した。床屋までは徒歩五分程度の距離だが、今の父親には果てしなく遠く感じる。どうやって連れて行こう、とぐるぐる考えていたら父親が車でさっと行ってくるよと言う。いやいや、無理でしょう。大丈夫だって。とやりとりしながらとりあえず今から行けるか聞いてみてくれ、と譲らないので床屋さんに電話をかけた。すみません⚫︎⚫︎の娘ですけど。父親が一度家に帰ってきていまして。これから施設に向かうんですが、その前に髪を切りたいそうで。今から行っても良いですか?

床屋さんは残念そうに今から他の予約入ってるのよ。と言った。そうですか。ええと…をどうしようか考えながら言葉を選んでいると、父親がダメだって?と聞いてくるので頷いて見せた。その間に床屋さんが先に電話くれればよかったのに、と言った。そんなこと言われても。父親がじゃぁ仕方ないな。良いよ、と言ってくれたのでじゃあ大丈夫です、すみませんと言って電話を切った。

そろそろタクシーを呼ばないとならない時間になった。アプリから呼び出す。着替えようかな、と父親が言って私も寒いしその方が良いねと答えた。全ての準備が終わったけれどタクシーがなかなか来ない。おかしいなとアプリのマップを開くと、家がある道路から一つ手前の曲がり角で待機していることが分かった。私の足で歩けば二分程度の距離でも父親を歩かせるわけにはいかない。タクシーが近くまで来ているみたいだから迎えに行ってくるね、と父親に声をかけて家を出た。雨が降り始めていた。タクシーが停まっている角まで小走りして運転手にすみません、病人がいるので家の前まで来てもらって良いですかと声をかけてまたタクシーの前を小走りで誘導した。ここです、とタクシーの方に向かって手で示してから家の中に入る。

父親は居間に座っていた。来たよ、と声をかけるとあぁ、と立ち上がった。ゆっくりと玄関まで歩き、靴を履く。父親が外に出るのを見届けてから玄関ドアの鍵をかける。カバンや雑貨をトランクに詰めて後部座席に並んで座った。運転手に施設の住所を説明する。えっと…と運転手がナビを操作して道順を何度も辿り、辿っては拡大し、という操作を繰り返した。こちらの有料道路のほうでいいですかね。と言う。自分で運転しない私は分からないのでお任せします、と答えた。私の答えを聞いた運転手はまたナビを操作し始めた。父親がシートベルトを絞めるのに苦戦しているので手伝って何度も金具を穴に差し込むがカチッとはまらない。父親が運転手に向かってベルトが閉まらないんだけど、と何度か声をかけるが運転手は聞こえているのかいないのか、反応せずじゃぁ出発しますとサイドブレーキを外した。それを見た父親が前席との間に設置されている仕切り板をバンバンと叩きながらねぇ、閉まらないんだけど、ともう一度言った。この身体のどこにこんな力が残ってるのかと驚く強さだった。さすがの運転手もこれは無視できなかったようで、車から降りて父親の座っている側のドアを外から開き、シートベルトを探ろうとした。その間にもガチャガチャとあれこれ試していた私が、父親が使おうとしていた差し込み口とは別の口があることにようやく気づき、あ、こっちだよ、と言ってカチャリと閉めることができた。大騒ぎした父親はあぁ、とだけ言って何事も無かったかのような顔で前を向いた。運転手が戻り、ようやく車は動き出した。

周辺の道をそれなりに知っている父親はえ、こっちの道使うの?とたまに声を出した。運転手はずっと無視したままだったし、相変わらずナビを何度もなぞっていた。父親は、さすがにまた仕切り板を叩くようなことはしなかったが、えらいのに当たっちゃったなぁとボソリと呟き、諦めた様子で外を眺めていた。父親の手には、これからお世話になる施設のパンフレットと嚥下機能を回復するためのリハビリ運動について書かれたチラシが握りしめられていて、信号待ちなどで車が止まるとそれらをそっと開いて見つめていた。

チラシを持つ父親の手が、まるで救命ロープを握るように固く丸まっている様子を盗み見ながら私は締め付けられるような胸の感触に耐えていた。



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