star_of_bba’s diary

甲状腺、卵巣と立て続けに手術したのち遊び歩いてます。

父を送る(24) 積まれていく予兆

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一週間ほど間が空いて父親から再度電話があった。ちょっとな、パジャマを汚しちゃったんだよ。買ってもらえるか。と言うので分かった、すぐ手配するね。と答えた。平日ど真ん中だったので持って行く時間を惜しんでその場でネットを開いて施設に直接届くように購入した。数時間後、施設からも電話がかかってきた。お父様がお腹を下してしまいまして、と言う報告だった。聞くと、ここ数週間でも熱が上がったり下がったりで高カロリーの点滴はほとんど打てていないらしい。今はお父様もご納得されておむつを着けていただいています。これまでトイレは自力で行かれていたのですが、今後はおむつ代もかかるかもしれません。と言われた。

この頃私は少しでも情報が欲しくて、介護の体験談や看取りの体験談を読み漁っていた。その中で、療養している家族がほとんど食べられる状態じゃなかったのにお腹を下し、どこにこんなに残っていたのかというほどお通じを出したという話があった。訪問看護師さんがおむつを交換しながら作者に、経験上、お別れが近いかもしれませんと説明していた。少しずつ体が弛緩していく中で起こる、終末医療あるあるらしい。施設の人の話を聞いて、このエピソードを思い出していた。これがそうなんだろうか、とまた不安が胸に広がった。

毎回父親の病状は施設の方から状態を聞くばかりで、訪問医からは一度も連絡が無かった。契約する時、医師は毎週往診して何かあればご連絡しますので、と言っていた。熱が上がったり下がったりや点滴が打てない状態は医師の言う『何か』に入らないのだろうか。前回の通院に申し送りがなかったことも相まって訪問医への不信感が積もっていった。

翌々日にはショッピングサイトからパジャマのお届け完了メールが送られてきたが、父親から届いたよ、という電話は来なかった。気に入らなかったのかな。なんだよもう、と思いつつまぁいいや、どうせ週末会うし、と放っておいた。

重い重い腰を上げてようやっと車椅子ごと乗られるタクシーを手配して二日後、施設から電話が来た。いつものように仕事中だったので着信に気づいて折り返すと、⚫︎⚫︎さんを担当している看護師の田渕です、と名乗ってから来週、銀行に行かれる予定でしたよね、と確認された。はい、そうですけど…と語尾をあげながら返すと、ちょっと難しいかもしれません。と言われた。

難しい、と言う言葉が理解できるまでに数秒かかった。どういうことでしょうか。あの、父はもう…あの、意識がないとか、そういう状態でしょうか…。

いいえ、意識はありますがケイミンが多くなってきました。と田渕さんはすぐに否定してくれた。続けて少し言いにくそうに、えっと…訪問医の先生から何か連絡はなかったですか。と聞かれた。田渕さんの質問に被せるようにいいえ、全くありません。と答えてしまった。そうですか…と言う田渕さんの戸惑いが電話越しに伝わった。田渕さんが逡巡しているところ悪いがと思いつつ、気になってあの…、ケイミンてなんでしょうか。と聞いてみた。あぁ、声をかければすぐ起きるけど、うとうと眠ってる状態が続くんです。と田渕さんは丁寧に教えてくれた。(電話を切ってからインターネットで検索してみたら傾眠は少しの刺激で目が覚める状態の、意識障害の一番軽いやつらしいことが分かった)

ちょうど外出日に訪問医の先生が来るので、外出できるかどうかは先生に聞いてからにしてはどうでしょうか。と田渕さんが提案してくれた。分かりました…。一度訪問医の先生にも連絡取ってみます、と答えてから、まだよく事態が飲み込めない私はあの、父は歩けない状態なんでしょうか、と似たような質問を繰り返してしまった。今はほとんど起き上がることもないです、と言う田渕さんの声が、ただの音みたいに頭の中に届いた。あ、分かりました。じゃぁ、当日よろしくお願いします。とぼんやりしたまま返事して電話を切った。

『ほとんど起き上がることもない』ってなんだろう。
しばらく言葉の意味を考えてから、迎車を予約していたタクシー会社にキャンセルの電話をかけた。
訪問医に電話をしてみたが、海外出張中なので戻り次第ご連絡させますね、と言われたのでお願いして電話を待ったが、ついぞ折り返し電話がかかってくることは無かった。

外出を予約した当日、訪問医の診療は昼近くだと聞いていたが、それでも始発の数発後には電車に乗ってしまった。父親がどう言う状態か早く確かめて、できる手を打たなくてはと焦っていた。

施設について真っ直ぐ父親の個室へ向かうと、誰かが部屋に入っていた。あ、娘さんですか。今おむつ交換しているので少しお待ちくださいねと声をかけられ、廊下で五分ほど待った。
お待たせしました、どうぞと言われて中に入る。退院した頃よりさらに小さく小さくなった父親が、ベッドの中にいた。クッションに支えられて少し体を傾けながら、ほぼ仰向けの状態でぷるぷると震える両手でベッドの柵を掴んでいた。
お父さん来たよ、と声を掛ける。おお、と父親が答えて来週通院だよな、保険の書類を書いてもらわなくちゃいけないんだ。あの病院の受付はアホだから、二枚持って行かないと心配だ。とペラペラ話し始めた。こんな状態でも人をアホ呼ばわりする父親に笑ってしまいつつ、叔母さん来たんでしょう?話せた?少しね。と会話したり、ちょっと苦しいからこのクッションどけてくれ、と言われて動かしたりした。ちょっと起き上がりたいから引っ張ってくれ、と言われて手を差し出された。いやいや無理でしょう、と言いつつ手を握る。たぶん父親は私に触れたかっただけだと思う。それ以上引っ張ってとも言わず私の手の中に小さくなった手を収めたままにしていた。

父親に少し大きな声でゆっくり言う。今日一緒に銀行行こうと思ってたけど、お父さん具合悪そうだから私が行ってくるよ。口座から引き落とされる施設のお金、私が別の口座から移しておくから。それで良い?
父親は、うん、うん、と頷いた。その後何か言ったが聞き取れず、え、何?と口元に耳を近づけて何度も聞き返したら、ありがとう、と父親が言った。お礼を言ってるだけだったと分かって何度も強要しちゃったと思いつつあは、なんだ。いいよ。とできるだけ明るく返した。じゃぁカード預かるからね。無くなったって騒がないでね。と言って鍵付きロッカーからカード入れを取り出す。あったよ。じゃぁ暗証番号教えてくれる?と父親に問いかける。

父親がぼんやりと空中を見ながら五…六…七…八、と言った。手元に持っていたノートに数字を大きく書き殴ってこれ?これで良い?合ってる?と父親の目の前にノートを突き出した。えっと…八、七、六、五だったかもしれない…と父親が言った。また数字を書いて父親の目の前でこっち?こっちね?と聞いた。うん…とぼんやりノートを眺めていた父親の目に小さな光が灯ってだんだん強くなった。なんだったかな。これかな…。ぶつぶつ言っている間の父はいつもみたいなしっかりした顔つきで一瞬だけ元気そうに見えた。うん、こっちだ。とあとから書いた八七六五を指す。わかった、じゃぁこれで銀行行ってくるからね。と言う私に父親がまだ居ろよ、と言った。うん、まだ行かないよ。お医者さん来るからそれまで待つよ、と答えてまたしばらく保険の話や通院の話やお見舞いに来てくれたOB会長の話などをしていたら訪問医が診察に来た。

一旦父親のそばを離れ、足元に立つ。脈を見たりしていた訪問医が今日はインフルエンザのワクチン用意してきましたけどどうしますか、打ちますか、と父親に聞いた。どっちが良いかな…と言う父親に打っても問題ないですよ、と訪問医が答える。今この状態でワクチンを接種することに意味があるのだろうか、と思ってしまった私は何も言えずにいた。どうします、と私と父親を交互に見ながら言う訪問医に父親が打ってください、と答えた。分かりました、と答えた訪問医がさっと準備して接種を終える。それから父親に向かって来週ね、病院の予約が入ってると思うけど、行きたかったら行ってもらって大丈夫だけど、もう少し体力回復してからでも良いかもしれないよ。よく考えてね。と声を掛けた。分かりました、と父親が言ってから続けて今日は点滴打たないんですか、と聞いた。訪問医が少し強い口調でうん、ちょっとまだポートを使うと熱が出るからね。高カロリーの点滴はまだできないね、と答えた。父親がそうですか。と言って黙ったところで訪問医が私に少し良いですか、と声をかけて廊下に出た。

お父さんにはああ言ったけどね、やっぱり通院は難しいと思います。それからね、心の準備をしておいてください。と訪問医が言った。そんなこと、どっちも私にだってわかる。
分かりました。と私が答えるのを聞いて、それでは…と立ち去りかけた訪問医にあの先生、と声をかけて話を続けた。

契約の手続きの際、先生は何かあればご連絡しますとおっしゃっていたのですが、これまで父親の病状をお伺いしたくて折り返しのご連絡をお願いしても、熱が続くような状態でも、お電話いただいたことがないんですけど、これって私が考える「何か」と、先生のおっしゃってる「何か」にずれがあるからだと思うんです。連絡があるはずだって思い込みで不信感を持つようなことはしたくないので、先生からお電話いただくのはどういう場合になるのか、具体的に教えていただいても良いですか。

訪問医は折り返しご連絡差し上げなかったのは申し訳ありません。完全に失念していました。と謝罪した。それから、こちらの施設は看護師さんが常駐しているので、一番早く変化に気付けるのはやっぱり普段から患者さんの様子を見ている看護師さんなんです。ですから、何かあった時の連絡は私からというより、主に看護師さんからになると思います。と言った。

ああこの人はハナから連絡する気が無いんだな、と理解した私はそれ以上何も言わず分かりました。ありがとうございました。とお礼を言って訪問医が立ち去るのを見送った。

父親の個室に戻る。銀行閉まっちゃうからそろそろ行くね、と言うと父親があぁ、戻ってくるだろう?と聞いてきた。一瞬悩んだが、銀行の手続きのついでに父親が名義変更したいと気にしていた株について証券会社を訪問しようとも考えていた私は、今日はこのまま帰るよ、仕事だから、と言ってじゃぁまた来週、通院だからね、と言って部屋を後にした。ナースステーションにいたスタッフさんからどうでした、お父さんから暗証番号聞けました、と尋ねられた。はい、なんとか聞けました。とガッツポーズを見せてエレベーターのボタンを押す。聞いたスタッフさんは信じられない、という顔をしていた。うちのお父さんしっかりしているんですよ、と内心得意になりながらエレベーターに乗って施設を出た。

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