star_of_bba’s diary

甲状腺、卵巣と立て続けに手術したのち遊び歩いてます。

父を送る(30) お葬式

前回の続き www.ribbons-and-laces-and-sweet-pretty-faces.site

最初から読む www.ribbons-and-laces-and-sweet-pretty-faces.site



翌日もすんなり起きることができた。近くの牛丼屋さんで朝定職を食べた。身支度を整えているうちに叔母たちが到着した。葬儀は身内だけとなった。ご住職が来るまでの間、控室に揃ったいとこたちへちょうど手近に置かれていたお盆を使っていそいそとお茶を配ったりした。ご住職は約束の時間通りいらっしゃった。到着してすぐにお経が始まった。

昨日のお通夜ではお経を聞いていても涙は出なかったが、今日は静かに涙が流れた。なんとなく、父親の旅立ちを感じていた。あぁ、これで本当にお別れだ。お父さんが本当に行っちゃう。という思いでいっぱいになってずっと泣いてしまった。

小さかった頃の父親とのやりとりを思い出した。私が子供の頃は実家の最寄り駅に本屋さんがあった。どこかに行った帰り道、父親がめずらしくその店の前で弟と私に好きな本買っていいよ、と言ったのだ。弟は怪獣か虫の図鑑を手に取った。私は毎月読んでいる少女コミック誌を胸に抱いてこれがいい、と言った。私の分は普通に童話とか小説とかを買うつもりでいたであろう父親が、私の手に取った漫画本を見てえっ、これがいいの?と驚いた声で聞いた。うん。これがいいと答えた私を困ったような顔で見てからうーん、そうかよ。とだけ言ってほら、レジに出しなと促した。

思えば、父親はいつも結局折れて私の好きにさせていた。四年制大学じゃなくて短大を選んだときも、寮に入ったときも、家を出た時も、夫と暮らし始めた時も。夜遊びしてろくに家に帰らなくなった頃だってそうだった。結局最後は私の好きにしていた。父親は私じゃなかったら絶対受け入れなかいようなことも、激怒しながらも最終的には折れて好きにさせてくれていたのだった。私にだけは、滅茶苦茶に甘かったのだ。

これまでの思い出を振り返りながらまた新しい涙がこぼれた。そうだったんだな。結局私はものすごく甘やかされていたんだな。ずいぶん親不孝だったな。ここに来て父親より私の方が画を通していたことに気付いてしまった私は少し胸がチクンとした。まぁでもいっか。私がいたってだけでも父親は最高に幸せだったに決まってるんだから。

そんなとりとめの無いことを考え続けていたらいつの間にか葬儀は終わっていた。父親の旅の準備を始める。三角の頭巾、脚絆、手甲と父親の手や腕や頭に次々と旅の衣装を着けていった。叔母が脚絆をつけやすいようにそっと父親の足を持ち上げる夫の様子を見てまた感謝の気持ちでいっぱいになった。夫にとってはいわば他人の死体なのに、平然と触れてあれやこれやを手伝ってくれるなんて、なかなかできることじゃない。ありがたいことだ。

父親の旅支度が終わると、お弁当として例の山盛りお米とお団子が棺の中に入った。最後にこう使うのかと得心がいったが、なおさら不格好なできで申し訳なかった。それから私が用意しておいた父親の母親の写真を棺に入れた。叔母が最後に良く見せて、と父親の母親の写真を眺めた。父親と叔母は腹違いの兄妹なので、母親と言うわけじゃない。それでも大事な存在なのかなと思いながら、写真を棺に入れてほしくなかったのでは、とちらっときになった。とは言っても生前からの父親の望みだったので、私は叔母の気持ちを気付かないふりでやり過ごした。私からも何か持たせてあげたい…と直前までどうしようか考えて、はっと思いついて全ページが使われた御朱印帳を入れた。御朱印帳が通行手形になる、という話もあるらしいと聞いた。少しでもこの御朱印帳のご利益で、父親のあの世での修業が楽になってくれますように、と願った。長野さんに御朱印帳はできるだけ広げて入れてください、どアドバイスされたので父親の身体を横断するように広げたら、ちょうど顔のあたりにお寺のご本尊であられる大日如来様の御朱印があった。これで顔パスできたらいいなと思った。

旅支度が終わり、入れたいものを入れて最後に飾られていた花たちを片っ端から詰めた。すごい量の花に囲まれた父親は、気付いたらきちんと目をつむって棺の中におとなしく寝ていた。ずっと半目で何か言いたがっていたように見えたがようやく観念したのか安堵したのか、眠る気になってくれたらしい。お父さん、ありがとう。そう言って棺の蓋を閉じてもらった。

火葬場へ移動する前にご住職の元へ行き、お布施を差し上げるタイミングがあった。お布施を出すときは直接手渡しせずお盆に載せるのがマナーらしいと調べて、葬儀が始まる前に長野さんにお盆を貸してくださいとお願いしてご用意してありますと聞いていたが見当たらない。控室の中であれ、お盆が無い、あれ、とやっていたら長野さんがどうされました、と来てくれた。すみません、お盆が見当たらなくて…と言うと、あの、そちらです…と長野さんが気まずそうに指示した先にはお茶を乗せた黒いお盆が置かれていた。あっ、これだったんですか!すみません。と平謝りで急いでお盆を拭いてからお布施を乗せてご住職に挨拶した。ドタバタだった。

火葬場には車で移動した。私は喪主だったので霊きゅう車に乗った。夫は叔母に乗せてもらった。予報では雨だったが晴れ間が見えた。
順番に案内されて、ご住職のお経に送られながら父親の棺が炉の中へと入っていった。これまで、親戚の火葬の場面ではみんなここで大泣きしていたが私は不思議と悲しくなかった。

父親が焼かれている間にお弁当を食べた。食堂に入った瞬間、急に空が真っ暗になって、さっきまでの晴れ模様が嘘みたいに大雨が降りだした。叔母が近づいてきて、従兄の奥さんのご実家でも病気の方がいて少し早めに帰らなくちゃいけないらしい、と教えてくれた。何時までかかるかな。もしかしたらお骨上げまでいられないかも、と言うのでぜんぜんそんなのいいよいいよ、と言って従兄に近づいて大丈夫?お昼はお弁当だし、こちらのことは気にしないで持って帰ってくれてぜんぜん良いよ、と聞いた。従兄が大丈夫、ありがとう。今すぐどうこうなるとか、そういう状態じゃないから。と説明してくれたので安心した。だけどやっぱりお骨上げまではいられず、先に帰ってもらうことになった。仕方ない。そんな中でも参列してくれたことに感謝しかない。

お骨上げには二時間ほどで呼ばれた。呼ばれたころには雨がすっかり上がってまたきれいな晴れ間が見えていた。どんな演出だろう。
父親のお骨はどの部分もしっかりしていて太かった。人数が少なかったので、一回ずつお骨上げした後はすべて係の人が骨壺に収めてくれた。あごの骨は特に見るからに頑丈そうで、そりゃぁ頑固なわけだよ、と思った。お骨がしっかり残りすぎて中々骨壺に収まりきらず、係の方が難儀していた。遺族の手前、バッキバキに折ったりもできないもんなぁ、と同情した。壺を揺すりながらなんとか収めてくれた。良かった。納骨で必ず必要になりますから、無くさないように中に埋葬許可証をしまいますね、と言われてはい、お願いしますと答えた。色んな手続きと作法があって人一人死ぬのは本当に大変だなぁと思った。

お骨上げが終わり、これにて閉会とあいなった。一度斎場に戻り、レンタルでお借りしていた喪服から着替えてお返しし、預けていた遺影などの荷物を引き取って遺影やお骨やお位牌を持ってタクシーで帰った。お骨はなかなかのサイズ感と重量感だった。持ち歩き用のバックを用意してもらったが、ちょっと電車には乗りにくいなぁと思った。

家に戻り、テーブルの上にお骨と位牌を置いた。花瓶を出してきて斎場からいただいてきた花を供えた。本当は納骨が終わるまで祭壇にお祀りするものらしいが、家に連れて帰るのに祭壇まで持って行けないし、帰った後置く場所が無いので葬儀屋さんからの組み立てましょうか、というお申し出は辞退させてもらった。

お疲れ様、ありがとうと夫を労った。俺何にもしてないよ、と夫はまた言った。もう一晩だけ止まって夫は先に帰った。私は役場の手続きだとか諸々を一気に片付けるつもりでもう一晩泊まって帰るよ、と言って夫を見送った。



これで父を送った話はおしまい。
父親自身のこまごまとした手続きから、相続の手続きまでなんだかんだで一年経とうとしているタイミングでようやっとすべてが終わった。本当に大変だったけれど、父親に約束した通りちゃんとやれたと思う。
終活大事だな、と思ったし家族と言うチームの強化は絶対に必要。難しかったらとにかくお金で解決できるようにしておくべきというのがここまでやりきった私からのアドバイスです。 この先のお話も不定期で載せていけたらいいなと思っています。読んでいただき、ありがとうございました。





こちらで書いた父を送る話をまとめて書き下ろしの後日談を付けた本を通販しています。よかったら以下の記事から詳細をご覧ください。 www.ribbons-and-laces-and-sweet-pretty-faces.site